【この記事は通常より長文です。読む忍耐を要されるため予めご了承ください】
先日の週末、ウィンドウショッピングで服の素材を見ていたらタヌキの毛が使われているものを初めて見ました。
さて、太陽が蠍座に入ってきました。私は見るyoutubeも固定されてきております。
良くも悪くも既に様々な感情体験をしている人達も多いのではないでしょうか。
獅子座の下弦ではグランドクロスが組まれます。
90度だらけ、ハードアスペクトだらけというのがクロスですから外から入るものが突然で
そうかと思えば、別のことに切り替えて、より集中といったように切り替えが激しく
自分なりの考えとか意見というのを次々と考えさせられることが多いようにも思います。
ちなみに、意見というのは自分が正しいと思っていることなので、だから人の数あって当然であるのでしょう。
土星と木星は順行に戻り水瓶座を通過中です。水瓶座は頭を使う星座なので
水瓶座に天体が入る際は、とにかく考えて、考えて、考えぬくという事象が多くなります。
しかし、今回の獅子座下弦では、いくら土星と木星が水瓶座であっても
実際は、まだ本家本元の水瓶座にはなっていないという根本を示しているように思います。
外側の変化は水瓶座の見掛けであって、中は全く水瓶座ではないという感じです。
今回の獅子座下弦の社会現象は「事実無根」という風向きが強かったように思いますが
気持ちと事実というのは切り離して考えていく必要があると思います。
事実というのは、はっきりいって当事者しかわかりません。人から聞いたことは事実かは分かりません。
自分の信じている人が他人も同じように信じるかというと結構な確率でそうでもなかったりします。
分かってもらえないということのほうが実情は多いように思います。
通常でもそうなのに、下弦だと、さらに自分の考えと他者の思いは一致しにくいです。
そのかわり90度というのは障害がありつつも「そう、それ」といったように
突然、同感できるモノが外から来るなど、一致するモノもたまに出てきたりします。
いつもではなく、たまにです。
私は人によって選択肢が3つでしかない領域で結局は多数か少数かの判断でしかないという事象が起きましたが
下弦に不動クロスが形成され、太陽は蠍座に入るというのを予め知っていたため
考える方向性が全く違うものに対し、これ以上、話しても無駄だなという事象からはすぐ離れました。
けれど、その事象によって、近くにはまったく同じ意見の人がいなかったとしても
遠くの県だと、全く同じ見解をズバリと言ってくれている機関があったので
身近な意見や小さい範囲の見解だけにとらわれてはいけないなと改めて思ったのと
遠くだと見つかる時があるというのを認識できました。遠くは天王星の象徴です。
また、見えないものへの回答というものが入りやすいのも今回の下弦です。
今までは「どうも、、、な気がする」と思っていたことに対し
ネイタルチャートの表示の中で確定要素も見つかりやすいでしょう。
見えない世界の知識は時にとても役立つことがありますが
どちらかというと多くの人にはあまり分かっていただけない分野でもあります。
現実とは、そういうもののほうが圧倒的に多いのではないでしょうか。
そう考えると、事実とは違うということを証明するのはとても大変です。
本人の言っていることが本当に事実なのか他の人には分からないからです。
だから警察、検察、弁護士、裁判という手段を用いて証明するしかないのですが
事実を証明するのが大変だという観点から考えたら被害にあう場合の救済手段が現状だと敷居が高く少ないように思います。
しかし、風の時代になると少し様子が変わります。
一人一人の情報発信が盛んな時代になるので「個人が記者」になり得るということが出てきます。
水瓶座には記者という象意があります。
個人でも時に記者であるかのように取材をしたり証拠を証明していく傾向になるということですね。
今でもその傾向が少し出始めています。記録媒体はデジタル化がより進むでしょうから
セキュリティチェックやデジタル媒体は外に置くようにして入室するなども増えていくかもしれません。
海外では体に埋め込むというのも出ているので日本と価値観が大きく違うのが分かりますね。
事実を見つけることは、とても大変なことですし、時に命懸けだったり危険も伴うかもしれません。
マスメディアの在り方を問う意見が多かったように思いますが、マスメディアであろうが、私達、一般人であろうが
事実と違うなら言うのは良くない、情報として流してはいけない、拡散するのは良くないと言うのは易しですが
本人以外、どれが事実なのかなど分からないですし、全てが断定できる物事ばかりではないので
推量の言葉や伝聞、そして知りたい欲求が存在している以上、ネット社会であればあるほど
事実とは違うということを無くすことは不可能のようにも思います。
だから、法や機関をもう少し整備する必要性もあるのではないかとも思ったりもしますが
個人でできることとしては他人の悪口を言っている人の側には近寄らないというのも有効ではないでしょうか。
水星逆行の時になるとカフェ等で職場の誰かの言動を非難している部下の話を上司が聞いてなだめているという光景を
毎年、必ず見かけるのですが、非難するほど仕事への情熱や意欲があるのなら
自分一人で独立してやればいいのにと私は思ってしまいます。
「自分でやればいいじゃん」と勧めると「それは嫌」という風にもなったりするので、ただ単に
本人が自分の思いどおりにやりたいようにも思えるので、独立したほうが性質を活かせるのではないかとも思います。
情報の拡散というのは、どこかのタイミングで拡散は必ず止まりますから、それが拡大の制限だったりもします。
ただし、その期間がどれぐらいかかるかとか、どこまで減るかは分かりません。
他人が流した情報ならばネット社会のほうが長く残りやすいですし
発信よりも消すほうがハードルが高いというのも少し疑問です。被害者にとっては過酷です。
もともと、私達の身近な生活であっても憶測情報だらけです。小さなサイズなら噂話だったり、悪口や陰口です。
誰もが経験していることだと思いますし、根拠のないことを言われたら誰でも嫌なものです。
けれど、悪口や陰口のない完全に美化された社会や時代というのは実際にあるものでしょうか。
人間には感情があるので、そんなに綺麗な生き物でもないと思いますし、どこまでも綺麗な文化というのはないようにも思います。
それぐらい、目に見えているものと見えないものには大きな違いがあるものです。
私達の多くは「~らしい」とか「~かもしれない」とか「はず」とか推測の言葉を普段からよく用いています。
週刊誌やマスコミの憶測は多くの人達が知りたいと思う公的な役割であるものを優先的に憶測されるものですし
事実ではないことをあたかも事実かのように伝える側面が大きいです。
嫌な思いをする人達も当事者以外にも大勢いることは想像できます。
けれど、時にその憶測が事実へ向かうことがあります。
そのため、憶測でモノを言うことがいいとは決して言い難いですが、必ずしも悪いともならないようにも思うのです。
なぜかというと、誰かが実際に体験した事実を人に伝えると、それを聞いた他者が他の人に伝達していく過程で
「~らしいよ」というように推測の言葉に変化していくからです。
事実であることが他者へ伝わると推測に変化するので、推測が時に事実へつながるということがあり得ます。
要は、発信側のモラルの大切さだったり、受け取り手である私達が情報というものをどう捉えていくかだと思うのですが
普段の生活の中で「○○らしいよ」という言葉は実際に多くの人がよく使うと思いますし
そう考えると世の情報は憶測情報がほとんどだと言っても過言ではないでしょう。
事実など本人しか分からないので、情報の中ではほんの一握りではないでしょうか。
2021年のノーベル平和賞をジャーナリストが受賞したことを考えても
事実というものを根気づよく追いかけ、それを社会に提供するというのは尊厳や健全な社会ということにおいて
大切だという意義なのかもしれません。それでも踏み込む程度が議論を呼ぶでしょうし難しい問題だと思います。
マスコミへの法規制というのは、どういう進展になるかというのは今後の課題にもなるのでしょうが
日本のマスコミのほうがまだ易しで、海外のマスコミのほうが手のひら返しが手厳しいようにも思います。
情報というのは事実のみならず憶測だらけという前提を個人個人が持つ必要があるということや
基本的に週刊誌とか芸能人の情報を扱っているメディアというのは健全な社会的意義を重視するというよりも
面白ければいいとか、売れればいいとか数字がとれればいいという側面や
他人の命をまるでゲームかのように考えている姿勢などが時に見受けられる側面があることは否めませんので
見過ごし難いものがあるとも思います。
自分で取拾選択できる範囲であれば自分が不健全だと思うものは、見ない、買わない、自分の生活の中に取り入れない
というのも自らの心を守る1つの方法だとも思います。
それでも、その逆で、見たい、知りたいという人達のほうが大勢いるから長年成り立っているのでしょう。
この間、ふと私も、芸能人の結婚だとか妊娠だとかわざわざ報告したり、世に流すほど必要な情報だろうかと思ったのですが
ものすごい古い年度から同じ疑問をもっている投稿などを見つけまして
知りたい人が一定数いるから成り立っているのと、広告戦略の1つという考えもあるようです。
ある程度、買う人、見る人、知りたがる人がいるから成り立っているのが情報機関でもあると思いますが
誰が書いているのか実名か無記名か、ペンネーム、ビジネスネームという「名前」も情報精査の判断の目安になったり
健全性の価値というところも意識していく人が多くなるかもしれません。
それでも、まだ世の根底は山羊座です。
モラルというよりも結果主義のメリット、デメリット、地位で判断するというのがまだまだベースになるでしょう。
逆を言えば、地位のある人や企業が、結果主義よりもモラルや健全性というところを意識しているか
というところも変化の兆しととらえていくといいでしょう。
ちなみに、実体験から申し上げると地位とモラル(人間性)というのは全く比例いたしませんからご注意ください。
普通に頑張っている人達のほうが、むしろ社会モラルが高かったりもします。
とはいえ、綺麗ごとばかりを言っているというのも、人間は本来そういう生き物ではないと考えても
情報を妄信しすぎないという視点も大切です。過大広告などはその代表例かもしれません。
巨大IT企業の社会的責務もより問われていくのではないでしょうか。
度を行き過ぎ、尊厳を害しているのであれば、法を用いるしかないのが現段階の被害者の救済手段の限界であるように思います。
ちなみに、情報発信に規制を設けすぎるというのもよくないそうで、表現や言論の自由の侵害にあたることはもちろんのこと
表面化しにくい情報が提供されにくくなるということにもつながるそうです。
「言論」というのは時に厄介で、本来ある人間の感情や性質を言論で抑えられていくことにもなり得るので
なんとも難しいのが情報化社会だと思います。
情報によって解決しやすくなったこともあれば、解決策の見つかり難い問題が今までの時代よりも増えたように思えてなりません。
※ちなみに、私は迷惑メールを送る人の特定化ができるよう技術進歩を願うばかりです